5 スタンレーの魔女
大空に響き渡る爆音。
レシプロ機の放つエンジン音だ。
数は一つではない。40機を超える堂々たる編隊だった。
その中でも目立つのが、太く長い胴体、水平に突き出された大きな翼。その翼に取り付けられた二基の発動機。
機体を覆うのは濃緑色の塗装。
整然と隊列を組み、威圧感を与えんがごとく飛ぶ。
大日本帝国海軍の誇る傑作機、一式陸上攻撃機だった。
その三番機の正操縦席に座る機長、野中卓也飛曹長は眼下の山脈を見下ろした。
その山脈は北西から南西までに広がり、その標高は4000mを超えるという。
雄大なオーエンスタンレー山脈であった。
「フィーナ、夢にまで見たスタンレーの山々だ。こうやってあっさり越えると情緒も無いかな」
「そうね、これがあのスタンレーかと思うと、あっけないものね」
副操縦席に座る、フィーナと呼ばれた女性も眼下を見下ろしていた。
二人の軽い口調に対し、その目は爛々と輝いていた。
操縦席の隅には赤い表紙をした一冊の本が狭く押し込まれるように置かれている。
その表紙には「わが青春のアルカディア」と書かれていた。
操縦席に座る野中機長は日華事変以来のパイロットで本来は戦闘機乗りだった。
突出した技能は無かったが、器用な男で、どんな機体も操縦して見せたので、内地に呼ばれテストパイロットになっていた。
わけあって今は一式陸攻の操縦をしている。
フィーナもテストパイロットでドイツ第三帝国から派遣されていた。
任務は日本海軍の長距離戦闘機零戦の設計図と機体の受領。さらに長距離攻撃機一式陸攻の設計図の受領にあった。
フィーナは顔を上げると卓也の視線に気づいた。卓也はスタンレーを眺めていたかと思うと、今はフィーナの横顔を見ていた。
「なにかしら?」
「いやさ、こうやって横顔を見ると、君は美しいというより可愛いなって思ってたのさ。
俄然、ファイトが沸いてくる。
はるばるドイツからやってきてニューギニアの空で死んだら気の毒だ。
何が何でも生かして返してあげたい」
「気の毒なんてことは無いわ。私は志願して乗ったのよ
仮に気の毒だとしたら、皆がそうかしら」
「そうだ、みんな気の毒だ。
アメリカと戦争しているのにその本土を叩かず、こんなわけ分からん所を爆撃する。
気の毒かつ不条理だな」
軽口を止めると卓也は視線を前方へ戻すし。真剣なまなざしで見つめる。
もうすぐ目的地だ。
フィーナ達が任務の為に日本の飛行場へ到着したのは一ヶ月前の事であった。
男性一名、女性四名。
出迎えたのは野中飛曹長他数名。
華やかな女性陣を出迎えたとき、盟友ドイツから派遣されてきた技術仕官とは見えず、何らかの慰問団にしか見えなかったと後述している。
到着すると男性将校は基地の技術将校の挨拶を受け事務所に向かう。他の女性陣は挨拶もそこそこに宿舎へ向うとのことで野中飛曹長が案内した。
野中は自分と同じように戦闘機乗りであるフィーナに興味を持ち、よく話題を振った。
「そうか、君はチェコの出身だったのか。それがどうして鉄十字の軍服を着ているんだ?」
「家賃を払っているようなものよ」
「故郷へ帰りたいか?」
「勿論よ、貴方もでしょう?」
「ああ。俺の故郷は九州にある島の出身でね。親父は漁師だった」
「鹿児島?」
「いや、五島列島っていう所の若松島でね。
びっくりするほどのド田舎だよ。君はプラハとか、都会の出身?」
「いいえ、〜の森が私の故郷。
アーシュライト一族は皆、遠い旅路の果てでも故郷を想い、そしていつかは帰るの」
「いいな、そういうの。
ところで君は今、アーシュライトと言ったが航空探検家のアーシュライトと関係あるのか?」
「航空探検家、ファントム・F・アーシュライトは私の父様。私は長女。兄妹はチェコで帰りを待っているわ。
父様はさっき、事務所に呼ばれて行ったわ。」
「そうだったのか。世界は狭いな。
ファントム・F・アーシュライトの書いた航空探検物語、わが青春のアルカディア。あの心は男でなければ分からん。もう30回は読んだよ。日本語版が発売されて良かった本当に。」
「父様の心は女でも分かるものよ。私だけかもしれないのだけれど」
「しかしこれで明後日の楽しみが倍増したよ。名高きファントムの長女と模擬空戦だ。
模擬とはいえ、勝ったらサインを貰わないとな。」
「私のサインは高いわよ。これでもバトル・オブ・ブリテンでも負けなかったわ」
「バトル・オブ・ブリテンか。激戦だったと聞いている。
中国大陸の空中戦とは違うだろうが、俺も負けなかった。
まあ、こんな機会は滅多にない。悔いが無いようにやらせてもらうよ」
「ええ、お互いにね」
翌日にはメッサーシュミットが飛行場まで運ばれてくる。
解体された機体はトラック数台に分けられていた。
フィーナ達が乗り込んでいた伊号潜水艦によって、ドイツより運ばれてきたのだ。
飛行場の整備兵も集まり、フィーナ達と一緒に組み立て、整備を行う。
その過程で卓也はフィーナに限らず、その仲間達と打ち解けていった。
整備が得意というミア。彼女は料理をはじめ、家事が得意ときくと、「操縦整備に家事が得意。嫁にしたくなる女性の筆頭各だ」と口を滑らせ、フィーナの機嫌を大いに損ねた。
航法が得意なエステルは冷静に位置を見極めるだけでなく、速度、飛行距離を冷静に計算できた。その割りに怒りやすいようだ。軽口は控えた。
冷静なインテリの雰囲気を持っていたカレンは、見た目に寄らず、剣士でもあるという。調子に乗って手合わせをしたはいいが、あやうく怪我をするところであった。
組み立て、整備も完了したメッサーシュミットはフィーナが搭乗し、軽快に異国の空を飛び舞う。
そして無事に着陸し、皆の元へ来る。表情が暗い。
「何かあったのか?」
思わず卓也が聞く。
「部品の数に質、共に問題はないですが…」
「ミアが監督したのよ。不備があるはずないわ。でも、調子が出ないの」
「原因不明か…、分かるまで模擬空戦は止めておこうか。面子にも関わるし、そもそも事故になるかもしれない」
「事故にはならないと思うのだけれど」
フィーナ、ミア、卓也だけでなく、皆も表情が暗くなる。
「燃料だろう」
ドスの効いたような低く、そして強い声。皆が振り向くと初老の男がいた。
皆が敬礼する。
答礼する初老の男はフィーナの父、ファントムに基地司令部の者達だった。
司令部の者はメッサーシュミットの拝見に来たのだろう。受領する事になっているのだ。
「ドイツ国内のものに比べてオクタン価が低いのだろう。よくある事だ」
航空探検家として世界の空を飛んできたファントムだからこそ、分かる事か。
訪問先の国で手に入る燃料が、カタログ通りのものとは限らない。そもそも何が混じっているのか分からないようなものまである。
フィーナとミアに頷くと卓也に向く。
「模擬空戦は予定通り行うわ。この機体はこれから、この燃料で戦うのだから都合が良いわ」
「ああ分かった。負けても燃料のせいにしてはいかんぞ」
「あら言うのね。誰に向って言ったのか、よく分からせないといけないわね」
この日はこの後、機体の基本操作や用途、エンジンの整備などを説明しながら一日を終える。
基地の者達は熱心に耳を傾け、学んだ。
フィーナと卓也はお互いの機体のついて説明をしていた。模擬空戦の後はお互いの機体を交換して乗る事になっている。
操縦についての違い、注意点、気をつけるところは沢山あった。
フィーナが零戦のコクピットに入ると、卓也が軽く笑った。
「何が可笑しいのかしら?」
「いや、君は本当に可愛いなって思っただけさ。後、用意が足りなかった。少し待っていて」
機体から飛び降りて走り去る卓也。何を取りにいったのか。
それにしても椅子の位置が低い。これでは満足な照準も出来ないのではないか。
視界が遮られているのを何とも思わないのだろうか。日本人は"機体に合わせる"という考えなのだろうか。
「いやぁ、待たせた待たせた。こいつを尻に敷こう」
「それ、パラシュートじゃないの!? あきれたわ!」
パラシュートを装着するのではなく、尻に敷くという発想を聞いて驚く。
敷いた上で装着するのではない。聞けば卓也は使ったことないし使い方を教えてもらった事が無いと。
フィーナには考えられなかった。機体がやられれば戦死が決定する。こんな事が許されるはずがない。
しかし詳しく聞けば民族性の違いなのか。"やられれば死ぬ"と割り切っていた。
納得がいかない。
「海洋でやられれば着水した所でフカのエジキになるだけだ。落下傘で降下しても意味がない」
達観した表情で言う卓也に、その為に潜水艦はあるのでしょう!?と発言しても仕方が無い。彼が決めるわけではない。
背水の陣という言葉がある。
零戦の強みはそこにあるのかもしれない。フィーナはそう思った。
翌日は良い天気に恵まれた。晴天そのもので空戦にはうってつけと言えた。
二機が上昇してゆく。
高度5000メートルに滞空30秒後に開始。相手の背後を数秒捉えたほうが勝ちとしている。
お互いが上昇後、緩く大きく旋回する。向かい合うと再び機首を翻し離れ、また旋回して距離を取る。
30秒は過ぎた。再び向かい合うと、二機はほぼ同時に機首を翻す。零戦は高度を下げつつ、メッサーシュミットは上げつつ旋回する。
(乗ってこない…?)
フィーナは不審に思う。高度は低いほうが不利だ。最初の一手でどうして下げた…?
甘く見ているのか、それとも中国大陸ではそうなのか…。
機体を降下させ、零戦の動きに合わせてゆく。降下態勢に入ると零戦は左急旋回をしつつ視界から消える。
どうも何かを狙っているようだ。フィーナは降下を取りやめ水平飛行に戻し、右旋回をして距離を取る。
だが零戦はこれを狙っていたようだった。フィーナが旋回しながら零戦を探そうと周りを見ると、後方200mの距離に旋回中の零戦が見えた。
タイミングが合っていたら、この一瞬で決まっていたかもしれない。
再び距離を離して上昇する。
フィーナに対して正面を向くに至っていなかった零戦は付いて来れない。
仕切りなおすように、旋回する。
フィーナを追って急上昇する零戦が目に入る。それをバンクしてやりすごす。
しかし背後を取るには至らない。零戦の旋回性能は聞いていたより良いのかもしれない。
地上の仲間をやきもきさせながら、模擬空戦はしばらく続く。
結果は卓也の負けだった。
一度はフィーナの背後を取ったが長続きせず、切り替えされるとこれに付いて行けず。
フィーナに背後を取られると、これを振り切れず、卓也は降参した。
「完敗だ。俺の及ぶ所じゃなかった」
苦笑いをする卓也の差し出された右手を握り、フィーナは応える。
「貴方もいい腕よ。実戦だったら、私が落とされていたかもしれないわ」
双方、良い腕前だと思っていた。
ガンカメラを用意して実戦さながらの演習ならどのような判定が出たか分からない。
「いい勝負だった。そして惜しかったな卓也。これでは娘のサインはやれない。残念賞は私のサインだ」
振り返る二人。ファントムがいた。さも愉快そうにしていた。
独逸でフィーナに挑んだ者は後でファントムが相手にする事があった。。
フィーナのサインを欲しがる読者、デートを申し込む者、暇があればファントムが出てきて相手を驚かせていた。
しかし卓也はそれで良かった。
彼が欲しかったのは執筆者であるファントムのものだった。
2日後には一式陸攻が到着する。
これのテスト飛行を繰り返し、運用法と設計図を受領すれば帰国だ。
ただし、この陸攻は新型で実戦テストをしてほしいと技術者から頼まれていた。
これを卓也は簡単に考えた。大陸まで飛ばせて爆撃すればよいと。護衛がしっかりしているので、やられることはないだろうと。
フィーナ達も乗る気でいた。仕上げは4人で乗り込もうと。ピクニックに行くかのような気軽さだった。
しかし内容は、海軍の要請でMO作戦の支援も兼ねて南方の作戦に従事し、テスト結果を見せて欲しいとの事だった。
一式陸攻は防弾能力が弱く撃たれたら脆かった。送られてきた機体はそこを補強した型で、結果次第ではこれを量産するつもりなのだろう。
数は六機。編隊を組んで作戦行動に当たるものとなった。
明日には搭乗員が揃うとのこと。
問題はテストパイロット四人も搭乗員の数に入っていた。四機に分散して乗り込み、残りの二機には三菱が派遣してきた技術者を乗せることになっていた。
このドイツ軍のテストパイロットを、テストとはいえ、日本海軍の軍事作戦に編入するのはドイツ空軍が認めていた。
「前線とはいえニューギニアだ。ドイツ空軍は貴重なテストパイロットを大事にしないのかな?」
率直の意見を口にする卓也を宿舎外に連れ出すと、フィーナは力なく答えた。
「この内容は私が原因かもしれない。あの子達は私の問題に巻き込まれたのかもしれないわ」
「まさか、君が何かあって、死地へ赴く事を強要されているとか…?」
「似たようなものかしら。ドイツ空軍基地に滞在中、言い寄ってきた高級将校を模擬空戦で叩いて振ったのが原因で、私は激戦地送り。北アフリカでも勝ち抜いたら、今度は潜水艦で日本行き。あの子達はれっきとした技術交換のはずだけど」
「クソッ、どこの軍隊にも腐った奴がいるな…。許せんよ、敵よりそいつらから殺してやりたい」
「言っても仕方の無い事よ。戦って勝ち続けるしかない」
卓也は頷くと、一呼吸置いた。
そして言おうとした言葉がなかなか出ない。言いにくそうにしているとフィーナが促した。
「ごめん、すぐに言葉が出なかった。中攻に乗る件だが、俺も一機預かる。君は俺の機体に乗らないか?」
「改まって言うのね、いいわ。実力の分かる人の操縦なら納得できるわ」
「俺の命に代えても君を帰還させて見せる」
「格好いいこと言うけれど、貴方の命が無くなる時は私の命も無くなる時よ」
「そりゃ違いない。気をつけよう」
「しっかりね」
翌日には搭乗員が続々と集まってくる。
これの振り分けが終り、機体が揃うと、その日の晩に壮行会を開き、翌日に出撃となる。
あわただしいなか、軽い朝食を取って機体へ向う卓也とフィーナを、ファントムが呼び止めた。
「二人とも、分かっていると思うが、その機体は自分だけの命ではない。無謀と勇気は違う。そして本当の勇気は、命をかけるだけでなく、意に反してでも、やらねばならぬ事を命がけで敢行することだ。」
フィーナは微笑を浮かべた。
まるで初陣に赴く若者へ送る言葉のようだ。
しかし、複葉機でスタンレーを制覇した航空探検家の父の言葉。
そして尊敬する一人の勇者の言葉。
フィーナと卓也は強く頷いて、機体へ向かっていった。
(今の技術力ならスタンレーの魔女は恐れるに足らず。問題はそのような事ではない。スタンレーの魔女とは、勇気を挫き、絶望を与えて、失意の淵に追い込んでくる存在だ。そのことを知った勇者は、さらに立ち向かわんとする。そういうものだ)
ファントムは思い出す。最後に来た搭乗員。三菱の指示で派遣されてきた町工場の技術者を。
丸いメガネをかけ、低い身長に酷いガニマタ。
彼は言った。
「俺が再設計した一式陸攻は今までのものとは違う。
発動機も設計しなおして出力を上げ、装甲版も消化装置も完璧に取り付けた。
設計図通りの発動機なら問題ない。保証する」
まるで、設計図通りでない発動機があるかのような言い方だ。
何故だ、何故そんな言い方をする。
日本の工業力への皮肉か…?
一式陸攻が飛び立ってゆく。
(二人とも…敵は米英だけとは限らないかもしれない。生きて帰れよ)
「爆撃目標に近づく! 編隊を崩すな!」
隊長機から指示が飛ぶ。
隊長の古代は行動力があり、誰よりも強い正義感があった。
女性四人が作戦に就く事を知るとすぐに司令部まで「女性に戦わせるとは、それでも男か!」と怒鳴り込みに行ったほどだ。
卓也は監視の強化を指示。前方には高角砲弾の炸裂が見える。
すでに先発隊が爆撃を終えた後だ。
敵の邀撃機も近くにいるはずだ。
「九時方向下方よりスピッツ迫る!」
機体内に緊張が走る。
すでに爆撃体勢に入っている。大きな回避行動は取れない。
「アメリカの威を借る狐、ここにアルカディアがあれば…」
副操縦席からフィーナが睨みつける。アルカディアとは彼女の乗っていたメッサーシュミットにつけられた名だ。
スピットファイヤの編隊は機銃を浴びせながら上昇してゆく。旋回機銃で応戦するが追いつかない。
「山本!!」
卓也が叫ぶ。
3番機の両翼から火の手が上がる。
機長の山本は卓也や加藤と大陸で一緒に戦っていた間柄だった。
美形でよく女性にモテ、卓也を始め、仲間らにうらやましがられた。
コクピットにいる山本を見る。卓也を見た山本は格好良く敬礼をした。
傾いていく山本機。しかし消化装置が働き、両翼の火は消える。
「ヒヤヒヤさせやがって…!」
緊迫した卓也の顔に笑みが浮かぶ。
しかし喜んでいる間もない。フィーナの声が卓也の意識を前方に戻す。
「卓也!指揮官機が!!」
隊長機の古代機は右発動機が停止するとそのまま火を噴出し、バランスを崩し、急速に高度を下げていった。
機体の損傷が酷いのか、又はパイロットが両方やられてしまったのか。
機首が引き上げられる事もなく視界から消えていく。
あの機体には技師の台羽と呼ばれた若い者が乗っていたはずだ。
変わって二番機の加藤が代わりに先導する。加藤の指示が伝わる。
「爆撃用意、目標飛行場!! 投下!!」
五発の1t爆弾が投下される。
どの程度の被害を与えたのか。
停められていた敵爆撃機が数機、破壊されたようだとも爆撃手から聞こえる。
卓也をはじめ、皆は脱出をする為に機体を反転させる。
この間も敵戦闘機の迎撃は執拗で、ついに加藤機は発生した左翼の火災を沈下させられぬまま、高度を下げていく。
「加藤っ!」
「エステル!」
卓也とフィーナが叫ぶ。
加藤機のコクピットは鮮血が飛び散り、副操縦士の女性、エステルが必死に操縦桿を握り機を起こそうとしていた。
翼も打ち抜かれたが、コクピットもやられのだろう。
「…野郎……!」
軽快に飛び回るスピットファイヤを睨みつける卓也。
撃たれた加藤は卓也にとっては同じ同期生の山本より付き合いが深かった。同郷の出身だった。
出撃の壮行会では「これが食いたかったんだろう。こいつとコーヒーで独逸人のティータイムだ」と故郷の特産品。甘くないジャム(美味くもない)を出してフィーナを辟易さえた。
冗談の分かるいい奴だった。
絶対に許せない。機銃に取り付いて自ら撃ち落してやりたい…。
腰を上げたとき、
「卓也、しっかり! 新手が来るわ!」
卓也の心を悟ったのか、フィーナは大声で呼ぶ。
正気を取り戻した卓也は深呼吸をして操縦桿を握りなおす。
「ありがとう、取り乱す所だった」
「戦いはこれからよ、気を引き締めましょう!」
(ここまでの仕打ちをするか…)
四番機の坂本機に乗っていた町工場の技師、大山は思う。
自分を戦場に押し出し亡き者とし、設計された手柄は自分達のものにしてしまう。
護衛の機体が一機もつけられない。これは奴らの要請によるものだろう。
戦闘機隊もおかしいと思わないのか、「あの中攻隊は護衛しなくて良い」と言われ、「ハイ分かりました」と答えてそのままなのか。
「二次方向の雲海を目指す」
代わって指揮官機となった野中からの無線が飛ぶ。坂本は了解と返すと飛び回る敵機を睨みつける。
坂本機は大事な技師を乗せている都合で、編隊の中央に位置していた。
それでも野中がやられれば次は自分の番だ。
「上空から敵機迫る!」
操縦桿を倒し回避行動に入る。
上空からの銃撃で左翼からはガソリンが漏れ始めるのが分かった。
まだ燃料に余裕はあるはず。坂本は燃料計を見ると、余裕はなかった。右翼のガソリンも漏れているようで、こちらは酷い漏れ方をしていたようであまり残っていなかった。
高角砲弾を受けてのものだったのだろうか、それとも…。
この燃料では高度を上げてスタンレーを超えることなど出来やしない。
坂本は振り返って一言。
「燃料がやられた。帰れない」
乗組員達からは戻って自爆しようと意見が出る。
どうせ死ぬなら敵基地の何かを道連れに…。そうするしかなかった。
「いや、宙返りを見せてやろうぜ。どのみち、一機だけで敵基地までいけるわけねぇ。宙返りは出来ないといった皆に一泡吹かせてやろうぜ」
操縦の天才である坂本は、陸攻でも宙返りが出来ると出撃壮行会で豪語していたが、古代は「出来るわけない。失速して墜落するだけだ」と言い、野中は「出来る事にしてやろうぜ。後でうるさいと適わん」と大笑いしていた。
やろう、やってやろう。見せ付けてやろう。そんな言葉が上がった。
「大山さん、すまねぇ。帰れなくなっちまった。最後に皆ができない事をやってやる」
「俺の設計した機体に不可能はない。見せてくれ、見事な宙返りを」
大山は腕を組み、坂本に笑顔を見せた。
坂本は頷くと操縦桿を握り締め、「行くぞっ!」と気合を入れた。
「四番機、急上昇!!」
「何だって? 坂本、隊列に戻れ!」
野中の送る無線に、いつもの坂本の声を返ってくる。
「悪ィ、燃料タンクがやられた。冥土の土産に俺の宙返りを見せてやる。ようく見ておけ! 見終わったら拍手しろ!!」
「坂本…、お前……」
それ以降、坂本の声は途絶える。
隊列を離れ、急上昇をし続ける四番機は格好の目標となった。
多くの機銃弾を浴びながらも機体は上昇し、やがて背面飛行に。そして見事に一回転をやりとげた。
そしてそのまま機首を下げたまま、追撃する敵機と共に視界から消えてゆく。
燃料が無くなったのだろうか、火がつくこともなかった。
言葉のない野中機操縦席で、乾いた音が響く。
卓也が振り向くと、フィーナが拍手をしていた。
「卓也、彼の言葉を忘れたの? 彼の生き様に拍手の手向けを」
頷くと卓也も拍手をする。
二人の顔は赤らんでいた。
「坂本、ありがとう………」
感傷に浸る間もなく、さらなる新手が降下してくる。
この戦闘機隊は撤退していく主力の爆撃機部隊を追っていたものが、基地へ戻ろうとしていたものだった。
卓也達にとっては本当に運が無かった。
帰りがけの駄賃とばかりに襲い掛かってくる敵機に、卓也達は決死の反撃を行いながら全速で雲海を目指す。
雲海は目の前だ。あと少しで飛び込める。
急降下してくる敵機をやり過ごすことは出来た。
反復攻撃に移った敵機が左翼側に回り込むと、その間に山本機が入った。
「山本、隊列を崩すな。後ろへ戻れ! やられるぞ!!」
「どこにいたってやられるぜ! それにこいつはミアちゃんの頼みだ!」
「ミアの頼み…」
無線機から聞こえる山本の言葉にフィーナは思う。
北アフリカ戦線からフィーナの僚機としてミアは配属され、共に戦ってきた。
性格に甘く優しい所があったミアは、配属当初は敵機を撃ち損じ、反撃を受け、あやうく落とされそうになる事はしばしばあった。
そんな時はいつもフィーナが助けていた。
そんなミアも経験を積み一人前の戦闘機乗りになると、フィーナのよき相棒となっていった。
「今まで助けてもらった分、いつか恩返しがしたいってミアちゃんは言っていてな。今がその時だ。」
山本機は旋回機銃を向け射撃を続けるが、敵戦闘機隊はそんな抵抗をあざ笑うように軽快に飛び、機銃弾を浴びせ上昇していく。
左発動機が停止。山本機は落伍を始めた。
「先に帰っていろ、後で追いつく!」
「すまん、山本…!」
山本の元気な声で、卓也が嗚咽するように答える。続いてフィーナが無線を取った。
「ミア、ありがとう。この事を私は生涯忘れない」
「フィーナさん、必ず帰ってくださいね!」
落伍していく一式陸攻のコクピットで手を振っている者が見える。ミアに山本だった。
上昇する敵戦闘機隊が再びこちらに向き直ったとき、その後方にさらなる機影が確認できた。
万事休すか。
ここまできて発動機に異音が発生し、速度が下がっていく。
揚羽機からの問い合わせには、「発動機不良、先に行け」と返す。
卓也は敵戦闘機隊を睨みつける。
速度、高度も下がりつつある野中機を揚羽機が追い抜いてゆく。
心配そうに見ていく揚羽、カレンの二人が見えた。
卓也とフィーナは笑顔で見送る。軽く手を振ってやる。
「大丈夫だ。俺たちは死なない」
卓也の言葉に頷くフィーナ。
その言葉と裏腹に発動機の調子は良くない。
出力を上げようとするとその都度、発動機は息継ぎをした。
止まってしまうのではないか。そんな心配もした。
「おいでなすったな。ここがふんばりどころだ!」
敵機が近づく。卓也は操縦桿を傾ける。降下してくる敵戦闘機隊が次々と機銃を打ち込んでくる。
回避しきれない。右翼から出火する。そして機銃弾はコクピットにも飛び込んでくる。
手に力が入らない。機体を制御する力が失われていくように。
くそ、どうなってやがる…。
「卓也は止血を! ここは私が引き受ける!!」
フィーナの言葉で我に返り、自分の手を見る。機銃でやられたのだ。酷い出血だった。
仲間の治療を受ける間、いや、その後もフィーナが操縦桿を握る。
自動消火装置が働き、右翼の火は消える。
フィーナは機体を雲海へ向けなおし、考える。敵戦闘機隊の数の割には撃たれた量が少ないのではないか?
まだ他に気づかないだけで被害が出ているのか。
理由が分かった。
敵戦闘機隊の後方にいた新手の飛行機は、戻ってきた味方の直援戦闘機だった。
銀翼の零戦が数機、戻ってきて敵機を追い回ていた。
「なんとか、助かったみたいだな…」
「そうね。ここは乗り切ったわ。でも後一つ、手強い相手がいるわ」
「スタンレーか…」
「ええ、高度が足りないわ」
二人が高度計を睨みつける。
発動機の負荷を上げると稼動が危うくなる。
今にも止まりそうになる。
雲に飛び込む。これで敵機の追撃はやり過ごせる。
高度計を見ると3200mを指している。
スタンレーに挑むには心もとない。4000mは欲しい所だ。
機首を上げてもなかなか高度が取れない。
「機長、もうすぐスタンレーです!」
航法員の言葉で卓也はフィーナに向く。
「一度高度を下げて雲の下に出て、スタンレーを確認しよう」
「そうね、このままでは激突するかも知れないわ」
機首を下げ、雲海より出る。
そこで息を呑む光景を見たフィーナはすかさず操縦桿を倒す。
立ちふさがるスタンレーの岩の壁。いまだ距離はあったが、そのまま進んでいたら本当に激突していた。
高度計を見ると2500。
スタンレーに沿って南東へ降りながら頭上の雲が消えると、再び高度を取る。
しかし、3000を越えたあたりから発動機の具合がさらに悪くなる。
ふと、フィーナは左を見る。切り立った崖、寄り付くものを拒絶するスタンレーの姿が視界一杯に入る。
「魔女が笑っている…」
フィーナが振り返る。卓也の言葉だった。
「傷つき、スタンレーに挑む力を失った俺達を、スタンレーの魔女が笑っている」
「笑っているのを見返してやるべきよ。それに、まだ負けたと決まったわけではないわ。ブリテンでも北アフリカでも私は負けなかった」
「そうだな、君は負けない。しかし、どうやって高度を取る?」
「それは…」
言葉に詰まる。いくら威勢が良くても高度が取れなければスタンレーには勝てない。
父、ファントムの機体とは違う。
この一式陸攻は最新技術を投入された飛行機には違いないが、重量は桁ハズレだ。軽くするのにも限度があった。
卓也は燃料計を見る。
戦闘を繰り返していたわりには十分な量が残っていた。
これが残っていなかったら別の事を言ったであろう。
卓也はゆっくりとフィーナに言う。
「俺の負けだ。このままではスタンレーは越えられない。今日の所は俺の負けだ。迂回してラバウルを目指そう」
そんな気遣いが、かえって悔しかった。
フィーナの脳裏にさまざまな姿が消えては浮かび、消えては浮かんだ。
所詮は女の子。航空探検家として名高い父に劣る。
負けなかったと言っているが、生きて帰ってきただけだ。
あの子、将校達に気に入られていい機体を回されてるの。私も見た目が良ければ、故障の少ない機体に乗れたのかな!?
「卓也、私は負けたくないわ。どこかに越えられる所があるはずよ」
「このまま進めば、いずれ越えられる所に出るさ。それと、君は負けていない。負けたのは俺だ」
「………」
「俺の荒っぽい操縦で、この新型の発動機を駄目にしてしまったんだ」
「………」
「君はその尻拭いをやらされているに過ぎない。気負う事はないんだ。そして帰還に失敗したら、本当の負けになっちまう。帰ろう。帰ってまた、スタンレーに挑むんだ」
「………」
フィーナは卓也の言葉を聞きながら、沈黙を続けた。
宥めているのか、慰めているのか。
高度の取れない機体は山脈に沿って飛び続ける。
左手にはときおり、崖のような光景も広がる。寄せ付けるものを拒む、多くの探検家を葬ったスタンレーだった。
やがて機体は、山脈が今の高度より下がると、左に旋回しラバウルを目指す。
フィーナは自動操縦をセットすると振り返った。
釣られて卓也も振り返る。
山が笑っていた。スタンレーの魔女が、何も出来ずにすごすごと逃げ帰る者をあざ笑っていた。
「必ず帰ってくるわ…」
そんなスタンレーをフィーナは睨みつけた。
「ああ、次は逃げない。必ず乗り越える…」
卓也の言葉に、フィーナは強く頷いた。
揺れる車内で何度も思い出していた。
先祖から続く、共通した遠い記憶。
遙か昔に先祖が出会い、その時も共に戦っていたというのか。
鹿之介は隣に座るフィーナとは軽口を交わした他は言葉が出なかった。
記憶再生機にかけられてから時間はかなり経っており、一夜明けて朝になっていた。
ポリンの運転する自動車は滑らかに走る。運転技術も高いが、この乗り心地の良さは彼女の人柄を表すのだろうか。
「地球人居住区で降ろせばいいのね」
ポリンの言葉に鹿之介は「ああ」と簡単に答えた。他に行き場はないのだ。自分にもフィーナにも。
車外に目を向ける鹿之介。酷い音が響き渡る。
「どこのボロ船かしら。酷い音ね」
そんなポリンの言葉は鹿之介には届かなかった。
待ち望んだ振動音。こんなタイミングで彼と再会できるとは。鹿之介は宇宙の神に感謝したくなった。
「隊長、あの音を出している宇宙船を追ってくれないか。そこで降ろしてくれていい」
「ええ? あんな音を出している老朽艦に何の要かしら…?」
「かつての戦場で、共に戦った、かけがいの無い友人が乗っているんだ。是非に会いたい。頼む、追ってくれ」
「いいわ、任せなさい」
ポリンはハンドルを操作しながらアクセルを踏む。
トカーガ軍が操る自動車は警戒に走る。
やがて、巨大な艦体が視界に広がってくる。
「太陽系連合所属、シンフォニア王国が誇るシンフォニア級揚陸艦ね」
フィーナの言葉に鹿之介は頷いた。
そんなやりとりを横目で見ながら、ポリンは無関心を装った。
二人の間に割って入るのは時期尚早。ポリンは今しばらく二人の様子を見たかった。
シンフォニア級揚陸艦は一番艦のシンフォニア号そのものだった。
これは王族が管理していたはずだ。
シンフォニア王家と鹿之介が関与しているとは考え難い。
フィーナは思う、鹿之介はかつての上官でもある王家に何らかの形で無心をするのだろうと。
そのような行動をフィーナは嫌うのだが、是非には代えられない。
実際に自分自身が何も持っていない。すべてを喪失してアテもなく、そこにいる善良が取り柄のような男と行動を共にしている。
そしてよく考えれば、イルミダス兵に対しためらわずに武力行動を起こす人物が性善良であるはずもない。
なりゆきに身を任せる、今のフィーナはそんな弱い存在であった。
自動車を降りた三人はシンフォニア号に近づく。
ポリンはすぐに帰っても良かったのだが、気になっていた。
このシンフォニア号は第98代国王だったクリフ・クラウドが管理をしている。
そんな人物と理由も無く会う事は無い。ポリンは何故会うのか興味があり、今しばらくの行動を共にした。
着陸したシンフォニア号は不時着に近い形であり船体を大きく傾けていた。
艦尾ハッチに三人は近づく、鹿之介が大声で呼びかける。
「誰かいないかぁ? 俺だ、鹿之介だ!!」
王家の者が乗る船に対して"俺だ"。フィーナは思った。思った以上にこの人物はモラルに欠けるのだろうと。
そんな鹿之介の言葉に反応した影があった。
すっと姿を現した人物は小柄な可愛らしい女性。女性というより女の子といった方が分かりやすいか。
大きな丈のある帽子をかぶり、気取ったかのような身なりは中世期の魔女を想像させた。
「誰?」
「ラピスたんだ」
ポリンの疑問に率直に答える鹿之介。
「ラピスたん。聞いたことない名前ね」
そんな言葉を聞くラピスたんは言った。
「その"たん!"、禁止だよ♪」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!ーーーーーァ!!」
頭の先から電が落ち、ポリンが絶叫した。
口から煙を吐きながらポリンは鹿之介に詰め寄る。
「ネタに事欠くからって10年以上前のカビの生えたネタを使わなくっても良くって!?」
「しかし、そのたん禁止は必要だろう? うぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
電撃を浴び、口からプスプスと煙を吐きながら鹿之介はまだ立っていた。
なかなかタフだなとポリンは感心した。
「ひぃっぃぃやぁぁあっぁああああ!!」
続いてフィーナの絶叫。
「私、ラピスたんって言っていないわ…!」
憤るフィーナにラピスたんは笑顔で言った。「今言ったよね」
口内の痺れに耐えながらフィーナは思った。
何でこうも強引なんだろうと。
「下品なネタ、禁止って言ったのに。ラピスたんの何がイケないのよ! ほんぎゃぁぁぁぁあああ!!」
2度目の稲妻を浴びて、ポリンが立ったまま気絶し、受け身も取れずに前に倒れる。
鹿之介とフィーナが何とかそれを支えはしたが、二人とも、衝撃で気が遠くなっていた。
「久方ぶりのそのたん禁止。良かったぜ」
同じく倒れる鹿之介を見たフィーナは何も言わずにそのまま倒れた。
「最近の宇宙戦士はか弱いねぇ」
倒れる3人を見ながらラピスは笑顔でいた。
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