1 作戦廃止までの直近の流れ
はじめに
本項目はあくまで直近の出来事を簡潔に書いておくもので、詳細ではない。
作戦における各詳細については、それぞれで項目を設けるのでそちらを参照すること。
2013.後期
大佐からのメールには、体調不良に関わる話題が多く目に付いた。
特に30歳を越えると、どうしても体力不足が顕著に現れてしまうのだ。
これらの衰えが体調不良の原因とは一概に言えないが、仕方の無いことだとお互いに思った。
C85の時には大佐の食欲がまるで無い事で私が心配している記述があった。この段階では気づけなかった。
2014.春先
大佐の健康診断に異常が確認され、精密検査を受ける事となった。
以前の勤務体制にあった、一日に仮眠二時間で働き続けていたこと。その他、仕事での無理がたたったと本人もメールで書く。
2014.07
精密検査の結果が出る。大佐は進行性の大腸がんでステージ2だと。
治療して治るレベルだが、予断を許さない。我々はまだ、青年ともいうべき若さだ。
がんにやられれば、その根治確立は一般の数値より低くなるとみなければならない。
そして私はコミケ作戦の終了を呼びかけた。年齢も高くなってきて周りに同世代が減ってきている。
引退の時が来たのではないだろうか、私はそう大佐に呼びかけた。
言葉の裏にも表にも、治療に専念して生き残って欲しい、コミケが無くとも交際は今後も続くんだ。
そう言葉を送るが大佐はやはり行きたいと言う。
これで私は来るC86、87、88を見送り、状態を見てC89からコミケ復帰を話すが、C86に突入し、87は中止。
88、89は様子を見て判断するというものに決定した。
大佐の心情、そして自分が同じ立場だったらどうだろうか。考えた上での結果だった。
突入が決定すると私は、安房守、佐藤超先生に見送りにくるように要請し、安房守がはせ参じた。
2014.08.15〜08.17
JR豊橋駅に集合。
私、大佐、安房守と揃って改札口前にある競輪選手の等身大ポップで記念撮影をして発進。
この時には簡単な薬物治療が始まっており、起床時に大佐が苦しむことになった。
時間を間違えるといかんらしいが、想像した厳しさを目の当たりにした気分だった。
これがC87を中止にする決定打となった。
2014.09
リンパに移転がみられるとの悲惨な報告を受ける。
悪性かどうかを調べるのだと。
悪性だった場合はC87は敢行する事になる。私が当事者だったらそうする。
医者の言う、「好きな事をさせてあげてください」ってやつだ。
2014.10
検査の結果、リンパにあるブツは悪性ではないとの事。
ほっと胸をなでおろす。
2014.11
大佐はどうしてもコミケに行きたい。
気持ちは分かるがどうしようもない。
言葉の端端からは私の足まで止める事になったのを気負うものもある。
こればかりは仕方が無いのだが、やむをえない。私が単独出撃して大佐の戦果も挙げるべし。
2014.12.30
仕事から帰ってきて、C87への出動準備に入る。
まあ、この時の話しは身内では有名で、詳細は草を生やしながら個別を見て欲しい。
大佐とメールで草を生やす。
2015.01〜05
大佐からのメールでは抗がん剤のぶち込む月は体力がえらく落ちて駄目になるが、そうでない月は
割と動けるのでそれをみて判断する事にした。
で、8月は抗がん剤を使わない月なので、出動となった。
医者の許可は出ているらしい。しかも、ビールをたしなむ程度なら良いとの事。
経過はすこぶる良好でまさに神のような医者だ。
2015.06
安房守にコミケに来るように伝える。資金は私が用意する。
ただし、タダじゃなくて同人誌の取り込み作業を依頼する。
紙袋10杯以上の分量を見て、安房守は後悔したはずだ。
2015.08
三人でコミケに向かう。
C88では大佐、安房守の体力がやはりというか不足しており、計画も相当に見直した。
2015.12
C89では抗がん剤治療も終って復活した大佐と行く。
この時は作戦内容を整える事ができずに大佐の案で浅草に向かう。
かつて小学生時代に修学旅行で行ったとのこと。
私は覚えてなくて申し訳ない。
都庁が閉まっていてガッカリする。
2016.01
作戦内容を整備する為に今から取り掛かる。
C90では作戦内容に不自由が無いようにするのだ。
2016.03
大佐との連絡で、C90では松戸競輪のオールスターに行く案が決まる。
久方ぶりの競輪作戦となる。
2016.04
変態仮面の映画を見る約束をする。
2016.05
上映日が分かると、大佐に行ける日を三種類用意し、決めてもらう。
これが大佐は三種類とも行けると返答し、私はどの日に行くのかの返答を待った。
このやり取りのミス何日も無駄に時間を過ごし、その結果、「何日に行くのか?」を大佐が電話をしてきた。
これが勤務中の時間で私は大いに驚く。
勤務中の電話は過去20年近く、一度もなかったのだ。
この後、緊急で日程をまとめて、安房守にも連絡し夜に出動となった。
集合場所に来るが大佐がいない。
何か似てるのいるが、アレじゃない。
でも、その似てる人が大佐だった。三度見てようやく分かったほど、彼は衰弱して細くなっていた。
何があったのか聞くと、「上司の土産の貝を食ったら毒に当たった」とのこと。
それはうそで、実際には再発で手遅れなのかと思ったが、がん治療の結果、抵抗力が落ちてしまい、
普通の人が普通に撃退できるものでコロッとやられてしまう事があるとは聞いていた。
まさか…いやしかし、大佐の事だ。乗り越えられるだろう。
こうして出てきているのだから…。
見た目はアレだが、言葉や頭の回転は至って正常で体力面の心配があるといったところだと判断した。
その体力もかなり弱まっており、帰路に着く際、歩くのが大変で間に合わず、我々は終電、
大佐は夜行バスで帰る事となった。
後日のメールで次回の映画、艦これの上映では私が休みを取るので日中に会う事を決めた。
食事についても取り決めておく。
まあC90で会うので、細かい事はその時に話し合えばよい。
2016.06
トレティオの予約が取れた事を大佐に伝える。
年々、東京の宿泊は取りにくくなっており、コミケ時期は大変、苦しいものとなっている。
大佐からの返信では体の状態が良くなく、動悸が激しいと。
C90は行けないかもしれないと弱気な所もあった。
私は今までどおり、大佐は乗り越えるだろうと信じた。
何かあれば連絡があるだろう。
2016.08.12
大佐の姿、ついに見ず。
6月からこの日まで、大佐との連絡は取っていない。
この連絡を取らない期間が長いのはいつもの事で、コミケ前の連絡は、宿の確認が最後になっている。
これで十年以上やっている。
とはいえ、5、6月の状況が良くなかったのが分かっている以上、連絡を密にすべきだった。
2016.08.下旬
連絡を取る方法が無く、肝心の書類も昨年のアクシデントで喪失している。
万策尽きた私は手紙を大佐の賃貸マンションに出す事にする。
本人がすでにいなくなっていても遺族はいる。何らかの返答が期待できるだろう。
職場で受けた指摘は、
「その手紙は開封されずに戻ってくる。遺族が何かを書いて寄越すことはない」
その通りだった。
2016.09中旬
私の手紙は戻ってくる。三週間もかかった。
「本人に渡すことが出来ませんでした」
と一筆を添えられて。
これで確定と見てよいと思い、周辺の仲間には、死亡したとしか思えないと伝えた。
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