2 発端から廃止までの歴史 C66


【2004年(H16) 08月 C66】

やけに詳細な記録が残っていた。
超フリートークという言葉があった。
懐かしい言葉で言葉を考えたのは大佐。
佐藤超先生が相手の返事も聞かずに一方的に話し続けるもの。
また、この時はコミケ突入前から超作戦が連発していて、鹿之介にやばいほどスト
レスが溜まっていたらしい。
集合がいつになるか分からない。決めても決まらないのだ。
予定時刻からえらく早く来る超先生に、いつになったら来るのか分からない塩ラーメン。
あの頃は無茶苦茶の全盛期って奴かね。
あの時は鹿之介、大佐、塩ラーメン、佐藤超先生と揃ってながらで出撃したらしい。


8月14日 (晴)(熱波)
非常に暑く、アスファルトの照り返しが激しかった。
企業に並んだ鹿之介はサーカスで配布されていた日傘を被って耐え抜いた。
余程苦しかったらしく、「断腸有難う」と、当時の日記に書かれていた。
鹿之介はF&Cに行ってCanvas2の壁紙を買いに行って完売してキレていたらしい。
また、バーチャコールクロニクルの発売がこの時で、サントラ付の発売がこの後だ
と知って憤慨していた。鹿之介がF&Cから離れる契機と言える。
佐藤超先生がスタジオリングを完遂していたと記録がある。
誰の依頼だっけ?

秋葉原についてロッカーの占拠に成功と記録がある。
この時はまだ秋葉原でロッカーを使っていたのだね。
後に東京到着と同時に秋葉原でロッカー占拠。さらに東京駅の地下でロッカーを
占拠という具合に段々とロッカーは使いにくくなる。
あとドクターペッパーの一気飲みをやって一番遅いものが明日のタクシー代を払う
という、今では考えられない事をやっていた。
ビール500ml一気飲みという事も行われて、鹿之介と佐藤超先生(発案者)以外、轟
沈したようだ。無茶苦茶やねん。
グッドマンの楽しい格安コーナーが消滅したのもこの頃。C58と並ぶ
300円コーナーが無くなった事を鹿之介がぼやいている。

ホテルでの打ち合わせで頭を抱える。
仲間が増やしてみんなで買うのだが、結果的にさらに数が増えて手に負えなくなる。
悪循環のような事が発生していたようだ。あまり覚えてないんだよね。
「自力で廻れない所は、仲間を信じて依頼しろ。考え込むのは断られてからだ」
上記の鹿之介の発言。いずれにせよ考え込むしかないわけだが、この言葉は後に
「自分の欲しいものは自分で買え。手に入らなくても妥協できる物だけ他人に頼め」
などと変わる。


8月15日 (雨)(寒波)
けもこも屋が限定二部なので鹿之介、大佐と二人で並ぶ。
よく見たら限定四部なので鹿之介一人でよい。
えらくロスタイムを大佐に出させてしまう。
この頃から即西のようなことを鹿之介が行っており、東の壁を回ったら西に行き、
東に帰るという離れ業を展開していた。
安房守から預かっている金を転用しようとしたが、雨に濡れて使えなかったという、
情けない記述も残っていた。
そうか、この頃は安房守からの依頼物である企業に行っていたんだね。

佐藤超先生は時間切れ。
「ちゃんと仲間に依頼したのだろうか、そして、仲間は動いたのだろうか。この辺
は定かになっていない」
などと記録に残っている。
つまり、鹿之介は佐藤超先生の依頼を受けていないのだ。
それはつまり、誰も受けてないという意味ではなかろうか。

よほど辛かったのだろう。
帰りの新幹線で佐藤超先生がキレた。
鹿之介と大佐が俺の悪口を行っているとぶちキレた。
二人の話題が当時のフランス大統領シラクについて雑談していたのだが、佐藤超
先生製作のAOCのAIの悪口を言っているように聞こえたらしい。
理解不能だが、当時はこういう事がよくあった。

あの当時は佐藤超先生の作るAIは内部記述を他者のものから丸まるコピーして自作
と偽る行為が"多発"しており対応に苦慮していた。
ひでぇ話だよなぁ。
なお、"じょーじ・ぶっしゅ"の鉛筆を買ったのはこの時。


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