2 発端から廃止までの歴史 コミケ作戦初期


記録が無くて当時の参加者の記憶をアテにして起こそうとしていたが、やはり覚え
ていないものは無理で詳細の日付が分からないままとなった。
分かっている範囲で書く。
まずは大佐と鹿之介の出会いから書いていく。

1998年5月5日、鹿之介は同人誌即売会の一般参加から足を洗って出て行った。
その後はオタ趣味から出て行ったわけではなく、秋葉原に出かけるなど、意欲に衰
えは無かった。コミットなどに行っていたのはこの頃になる。
当時からグッズ類を欲しがっていた鹿之介は、特にポスターを集めた。
収集したポスターは今も保有しており見る事も可能。
(処分が検討されたが、今の所は置き場が用意出来るので保管する)
同年9月10日。鹿之介が職場でアクシンデントが発生。入院する。
二ヵ月後に退院し、リハビリを行っていく。
1999年1月。貰った金で鹿之介が思い切ってPCを買う。
カッシュ君と相談した上でバリュースターNX(NEC製。以下、NXと略す)を24万程度で買った。
このPCの扱い方については、まっちゃんから教わる形だった。
すぐにエロゲを買うようになるが、まっちゃんがリーフメインで、鹿之介はF&C
メイン。初っ端から趣味が分かれた。
「ToHerat(以下、東鳩と略す)はときもめ以来のヒット作品。これからの時代のゲーム」と力説する
まっちゃんに、ああそうだね、と鹿之介が相槌を打っていたのがこの頃。
このリーフの全盛期は懐かしい話しだ。リーフにあらずばエロゲにあらずって
雰囲気がいかにも、まっちゃんらしかった。私は当時から東鳩より痕の方が好きであまり
やらなかった。後年に東鳩2が発売されるもついに買わなかった。
(そういえば、知らない間に「Leaf」の話を聞かなくなって、気づいた時には虎の穴に買収されてたね。
今もゲームを作ってるのかな?)


1999年3~6月。時期の詳細は不明。大佐を紹介される。
鹿之介のアパートの部屋に入ってきた大佐が、NXを見て驚き、興味を引く。
この瞬間が、後のC89まで続く、長い付き合いの始まりだった。
人と打ち解けるのが苦手という、社会人失格の鹿之介が、予備知識はあっても事実上
の初対面の相手となじむのは珍しい。早い段階で仲良くなったのは後にも先にも大佐
ぐらいしかいない。
特にPC操作で困った時は例外なく大佐が呼ばれ、その都度、食事と飲み物が用意された。
コンビニ弁当にペプシコーラが定番だった。大佐はペプシにこだわりがあったのだろう。
1999年6~11月。
すっかり鹿之介と打ち解けた大佐は話題に出た同人誌即売会に興味を持つ。
作戦はすぐに成立し、鹿之介、カッシュ君、大佐、他一名で突入となった。
目標はポートメッセ名古屋。これの突入時期が何度も話し合われても分からず、2017年
2月の末になっても確定を出せなかった。
なお、今、この瞬間になって当時に買われた本の題名を鹿之介が思い出したので、
その本の資料を発見して発行日から割り出す事になった。
「爆裂、ホシナ爆弾」という東鳩の本で2012年頃まで本棚で保管されていた。
果たして、自炊されて保管されているだろうか。
ジャンボエンチョーの廃品回収に放り込まれてないだろうか。


大佐はもっと大きいイベントに行きたいと言う。
ならば東京へ行こうという事になる。
この名古屋から東京へどれぐらいの期間があったか覚えている者がいない。
「期間があった」(鹿之介談)
「夏は用事があるから行けない」(安房守談)
「そんなに長い期間は置いてない」(カッシュ君談)
もう20年前の事なので詳細が思い出せないのだ。
ホシナ爆弾次第やね。
そんなわけで、鹿之介はカッシュ君、大佐と共に幕張に行ったのだった。


ムーンライトながら号を使って東京へ行き、幕張を目指す。
このながら号を利用する発想は当時にはすでにあった。
それはまっちゃんとの付き合いで、東京にあるアミューズメントパークに遊びに行
く際に使った事から知られた。
今となってはその行った場所がどこだか思い出せず、記憶が極めて断片的。
ドクターカオスのように思い出せないのだ。


東京へ到着し、京葉線に乗る。
幕張まで行き、外へ出る。そこから会場は近く、すでに列が出来ていたのでそこへ並ぶ。
なるほど、さすが東京のイベントだ。こんな朝早くから並んでいるとは。
しばらく並んでいて、様子が違う事に気づく。
同人誌即売会っていう雰囲気じゃないんだよね、並んでいる方々が(笑
並ぶ場所を探して突き止めるが、人がいない。何をしたか覚えてないが、時間を
潰してから再度、現地に入った。06:00ごろじゃ誰もいないんだよね。


幕張では拍子抜けをした。
まず、"東京のイベントはでかくて人が多い"と聞いていたわりには、名古屋より
ちょっと大きいだけ。また、販売物で買うものもほとんど無く、何をしに来たのか
分からなくなるところだった。「どうなってるんだこりゃ…?」と、考えながら歩
いて"お嬢の浴室"のケンシロウがピカチュウになっているギャグ本を買う。
これが後のコミケ作戦の中期まで購入し続けられた、お嬢の浴室の始まりとなった。
その時にサークルにいたガタイのでかい方が、そぼろ弁当をガツガツ食べていたの
が話題となった。そういう事は覚えているんだからなぁ…。


どうしようもないのでその後は、渋谷に向かったようで、ハチ公を見に行ったらしい。
らしいっていうのもカッシュ君の記憶だけで、私は何も覚えてない。
覚えているのは、坂を上って何らかのショップに行った事。
同人誌類を数多く取り扱っているもので、まんだらけではないけど、そんな店。
恐らくだが、"まんがの森"ではないかと思う。
まんがの森は一度だけ、行った事がある。買い物をしたかどうかが思い出せない。
当時の中古同人誌は欲しいものはケタはずれの高額で、普通のものは捨て値だった。
100円同人誌なんてのもザラにあった。
果たして、まんがの森がどんな値段で売っていたのか、買ってなければ"高かった"。
買っていれば"それなり"ってところなんだろうけど、思い出せない。
思い出せるのは、「まんがの森に行きまんがな!」(NG騎士ラムネ&40炎 TVCM)
(正確には、まんがの森のCMに40炎のキャラが使用された。
それは同作品に再出演したダ・サイダーで、ネタは乾坤一擲のだじゃれ。他にも種類
があったが思い出せない)


こうして、幕張の作戦は戦果がほとんど無く終った。
大佐の情報網により、東京の大きなイベントは年末に行われるもので、ビッグサイト
に行かなければならない事を知る。
(この幕張の作戦は、コミケがそこで行われているという、随分と古い情報で誤認
出撃したのではないかな…?)



いよいよC57に行く事になったが、メンバーは代わった。
カッシュ君から頼経になる。
この辺の経緯は不明。カッシュ君が金銭的事情か何らかで行けなくなったので頼経が
呼ばれたのだろうと思われる。
このC57の時は情報不足であり想像以上に厳しい作戦だった。
まず、有明の岸壁での待機(東待機列)がクソ寒くて辛かった。この寒さを知らなかった
頼経はカッターシャツ一枚で粘っていた。今では考えられない事だ。
またその寒さは尻にもきた。椅子を用意しなかった我々は尻の下にあるアスファル
トからものすごい勢いで体温を奪われた。
「ケツから体温を奪われる」という言葉が当時、よく使われていた。
これにすっかり参った我々は椅子を用意する事にした。
その時の椅子は2000年8月に催された河川でのバーベキュー作戦で使用されたもの
が導入された。その椅子は早い段階で鹿之介が壊し、後々の最終作戦まで使用され
た、MilkyWay2の椅子にとって代わられた。大佐の使用していた椅子はあれから
数年は使用され、物持ちの良さを鹿之介が褒めていた。
とにかく、コミケで椅子は必要不可欠なものだった。他にも必要なものはあるが、
椅子が絶対に必要でありそれに勝る物は無い。
直近のコミケでは、椅子が無い状態で冬コミの臨む若い人を見ると「強い。若いなぁ」
と思っていたが、C57とC89あたりでは暖冬のレベルが違うね。今なら椅子はさほど、
必要でないのかもしれない。


当時は人も今ほど多くなく、ながらで東京に入った時間でも後方に置かれずにいた。
最初に出来た待機列の外に置かれるレベルで、これが時が進むにしたがって後方に
流されていった。C89の頃では10:30にようやく列が動く状態だった。
10:00の会場前に館内に近づいていたのも遠い話となったよ。
一時は少しでも前進するために東京駅で他の者達と走る行為もしたが、C70あたりの
頃ではわざと一本を遅らせるようになっていた。一本の差が無くなってきており、
いずれにせよ後方に流されるのならば、無理はしないというスタンスに変わったのだ。


当時の思い出としてよく覚えているものが移動販売車による飲食物の販売。
後年になって、若い女性店員が「オタクばかりいる、きんもーっ☆」とネットで発言
して炎上した所でよく買っていた。人気なのはフランクフルトで鹿之介や大佐は
これを"肉棒"と呼んで食べていた。C57、58では大量に買ってきては食べるのでトイ
レが近くなり、無理なことをした。
無理な事とは、コミケ会場のトイレが長蛇の列で苦戦するのでゆりかもめを使って
二駅向こうまでトイレに行くもの。
当時はこの作戦が当たりを出していて、楽々に用を済ませた。
困ったのは鹿之介、大佐と二人がいなくなった後に待機列で頑張っていた頼経。
二人がなかなか戻ってこないので爆発寸電だったとか。2人は東雲駅から歩いて会
場に向かっていたので、そりゃ時間がかかる。あの頃はまだ視野が狭く、他者の事
まで頭が回らなかったのだね。


C57の反省点は
・防寒対策
・椅子がいる
・トイレ対策
・買う物が多すぎて人手が足りない

そして対策は次に生かされるのか。


2000年4月23日
エロゲメーカー「Leaf」主催のこみっくパーティが開かれる。
参加者は鹿之介、大佐、頼経。
まず、お祭り気分が抜け切らない鹿之介は大佐と待ち合わせする際に焼肉を用意。
出発までに食べようぜと気合を入れた。
これが原因でながらに乗り遅れる。
進退窮まった鹿之介達を救ったのが、寝台特急銀河。
寝台料金は鹿之介が持つことで発進。間に合ってよかったネ!
この銀河が想像以上に遅くて07:00過ぎに東京駅に着き、びっくりさせる。
ながらより二時間遅い。しかし、小規模のイベントなので安心していた。


現地に入ると長蛇の列。なかなか入れない。前に並ぶマシンガントークの兄ちゃん
と時間稼ぎをしながら何とか入る。
入った後も艱難辛苦だった。まず、どこに行くのも苦労する。狭すぎるせいだ。
また、膝を抱えて座り込む集団のスペースが邪魔で仕方なく、何を考えてこんな事
をやっているのか腹ただしくもあった。
この時の戦利品は鹿之介の買ったエディフェルのビデオパッケージ(勿論、VHS対応。
2010年過ぎに泣く泣く処分した)とカジノ鶴来屋。いかに鹿之介が痕に傾倒していた
か分かるもの。この作戦では身動きが取れず、戦利品を確保したのが鹿之介だけだ
という暗黒作戦となった。その戦利品ですら、「そんなものを買ってどうするんだ」
と大佐の目が語っていたのが厳しかったかも!




こみっくパーティのカタログ。
どうにもならないイベントの思い出として、保存されることがすぐに決まり、今も保有している。




チェックの後がある!
どこのサークルが来てたかなんて覚えてない。
ものを買うって言うレベルじゃなかったのだ。




その昔、いもむや本舗は普通に買えた。
これからもう少し後になると、長蛇の列が立ちふさがるようになるのだ。




蠍の犬園、魔法探偵社、琴村屋。
何だか懐かしいね。私が熱を入れていた頃のサークル達。




C58
とにかく人数が必要だと鹿之介、大佐の意見の結果、増員されることになった。
ここに鹿之介、大佐、頼経、カッシュ君、安房守の五人で突入となった。
この時もお祭り気分で鈍行列車で昼に出発。午前中は暑いからと対策用の物資を
スーパーで買い込んでいた。
夜に到着。天下一で遅めの夕食を取った後、ビッグサイトに向かう。
あの頃は宿泊の意図が無く、ホテルに泊まる金があるならそれを購入に差し向ける
しという、今では考えられない思想に染まっていた。
しかし、その思想が厳しい結果を招く。
まず、カッシュ君が徹夜に早朝に音夢くなり動作出来なくなる。盛んに離脱して
良いか問い合わせをするカッシュ君に頭にきた鹿之介がGOサインを出す。
この時にカッシュ君、安房守が離脱。
その時に大佐がボソッとつぶやいた、「敵前逃亡は銃殺刑だ」が特に印象に残った。
あの時は帰りたくなるのも分からぬ天候だった。
夏コミは暑くて地獄と聞いていたが、雨が降り注ぎ風も強く、夏の衣類では耐えら
れないほど寒かった。鹿之介、頼経が雨の中、煙草をつけながらカサの下で粘る。
思えば当時は煙草については何の規制も無く、そこら中で吸っていたねぇ。
後ろに座る他人様はどうにもならなくなり、靴をカタログで覆って粘っていたがど
うにもならない。終いにはキレたオッサンが上半身裸になって寒風摩擦を始めた。
その方は東方先生や江田島平八が好きなようでタオルとかを買いにサークルに行く
のだとか。そこのサークルでは「ホモ」だと名乗らないとモノを売ってくれないの
だそうだ。今では考えられないノリで、聞いているだけで楽しかった。


そのオッサンは実に元気で、シカトかましてカサに下に篭る頼経を下から覗き込んで
話しかけるなど傍若無人だった。彼のおかげで苦しい待機時間をクリアできた。
思えばコミケの待機で辛かったのはコレと後に書かれる霙の襲来時か。
よくやったよなぁ。
覚えているのは傘から滴り落ちる水滴が身体に当たるのが苦痛になっていくこと。
待機中の数時間、ずっとポチャン、ポチャンと当たり続けるのだ。逃げ場が無い。
さらに鹿之介の靴からは泡が出てくる。上から水滴、下からは泡が吹く。どうなって
いるのか。この世の地獄とはこうなのか。
(当時は足が臭くなる事が分かっていたので、防臭効果を持つパウダーを足に塗って
いた。これが雨でやられると、泡を吹くようになる。)
当時のネタにこんなのがあった。
「ポチャーン、ポチャーン…、俺もう帰っていい?」
永遠に止まらない水滴と、逃げていく男の心がネタになったのだ。
C58の時は会場前の列整理でスタッフが異常なことを始めた。
それは斜めへの圧縮だった。
普通、待機列を圧縮させるのならば前進するだけだが、あの時は進行方向斜めに圧
縮をかけた。そのおかげで急激に前進した。まさしくワープだった。
上半身裸のオッサンはさらに前に進んでいた。場慣れしてるね。
このでたらめな列整理はその後、行われなくなった。


作戦終了後に秋葉原で待ち合わせして帰る。
東京駅で安房守が切符を無くしたと大騒ぎ。
作戦に参加できない、切符を無くす。どうなっているのだと怒っていたが、慣れな
いのだから仕方ない。その安房守が後年、山手線の右回り、左回りを間違えた鹿之
介に怒鳴りつける。恐ろしい世界なのだ。
なお、東京から秋葉原に行くのに山手線だけでなく京浜東北線とか他にもあるのに
気づくのは2010年頃からになる。
これは鹿之介がコミケ作戦を始める以前に高田馬場まで山手線を使用しており、
山手線を知っていれば困らないと思っていたせい。高田馬場に何をしに行っていた
は分かる人は分かる。分からない人は永遠に分からないのだ。
行ったのは一回きりだけど。


2000年10月
舞台は変わって池袋。
コミックレヴォリューションに行ってみようという事になり、鹿之介、大佐、頼経
が突入する。これもながらを使ってのものだった。
C58後節と言いたくなるような天候で、この日も雨だった。
薄暗い早朝、小雨が降る中、階段の待機列で開場を待つ。
士気の低下は夥しく、階段での待機は椅子も使えず、やりきれなかった。
前回の反省から傘を使わずに合羽を用意して臨んだが、鹿之介の合羽は破れたので
は無かったかな?

開場時間になると列が動くはずだが動かず、一時間近く待機したのではなかったか。
内部は迷路でどこがどうだか分からず、依頼されたのはわけ分からんくなり、自分
がどこにいるのかも分からずただ、流される。
C58から買い始めたとされる魔法探偵社の列に待機するのは破棄。そんな状態じゃ
ない。どうする、どうするもない。進むのみ。
疲れ果てた鹿之介、大佐は「こんなとこ、二度と来るか」と悪態をつく。
賢い頼経はさっさと戦場を見限り脱出して、コンビニで本の立ち読みをしていた。
この件から「同人誌即売会は夏冬のコミックマーケット一本に参加する」と決定し、
それは2014年の神戸かわさき造船これくしょん2に鹿之介が突入するまで続いた。

レヴォの戦果は大佐が間違えて買ってきたKaminendoの本。
当時は"いくみん"ばっかり書いてたかな。
この間違えて買われたkaminendoはしばらくの間、購入対象となった。
あの時は"間違えて買う"事がよくあった。
さらに金銭のやり取りも無かった。頼まれて買うものはおごりだった。っていうか
相互協力の状態だったので、経費に差があっても僅差であり、計算が面倒だだけ
だった。便利なやり方だったが、そのやり方は後にトラブルになる。



2000年12月 C59
コミケは実に厳しい作戦であり、特に夜行で来て待機し、徹夜して2日目の参加な
ど場慣れした者でも辛いものだ。仮眠にも限度がある。
よって、当時からホテル使用案は鹿之介が出しており、作戦に余裕を持たせようと
していたが、「ホテルに五千円払うなら、同人誌を10部買うべきだ」という旧日
本陸軍みたいな発想が大佐にあると、鹿之介もその考えに従い、ホテルは使用しな
い方針で臨む。
C59はその後の方針を変換させる、規模の大きい作戦となった。
夜行で到着し、全三日間のコミケを完走する。ホテルの使用は無し。
よくもまあ、そんな事を考えたものだ。
徹夜組の仲間入りをしたのはこれで二回目で最後の徹夜となった。

岸壁で待機しつつ午前様の時間を待つ。
くっそ寒い中、よくも待つ事が出来た。
あまりに寒いのでテキ屋のおでんを驚きの値段で買うが、テキ屋の設備に足をとら
れてひっくり返す。さすがのテキ屋も可哀想と思って落とした分をくれた。
おでんを食いながら震える鹿之介は、Pia2の紙袋を目印にして、大佐、頼経と長い
作戦を開始した。
Pia2の紙袋はC57の時に秋葉原のゲーマーズで売っていた福袋に入っていたものだったか。
当時は天下一公園(現、秋葉原公園 総武線ホーム側から出て右手の公園)でその福袋
を開けてはじゃんけんをして、わけの分からないものを押し付けあうのが、楽しみ
の一つだった。その福袋はいつしか、正月から発売されるようになると、我々は買
わなくなった。ま、買えなくなったんだけどね。

初日にガンダム系に行き、いろいろ買ったのを覚えている。
オテント丸っていうサークルの本が人気でこれ以降もよく買った。
やおい本が面白かったので後で、「どうして買わなかったのか」と問われる鹿之介。
だってなぁ、買いにくいよな。男がやおい本ってサ。
覚えているのはこの初日。ルー・ルカのテレホンカードとかを買ったのもこの時で
それ以降の記憶はあまり無い。それも眠くて辛くて寝ていないからだろうか。
三日目になると朦朧としており、ビッグサイトから秋葉原にタクシーが到着して、
起こされた鹿之介がキレるなど、理解できない状況となっていた。
こうして、今後はホテルを利用する事が決まると、コミケ作戦は一段と楽になった。
拠点を設けて(コインロッカー)戦利品を置き、身体を洗って休める場(ホテル)を用
意する。当たり前の事をするまでにはこの、C59をやらなければ分からなかったのだ。




初日。西に向かう。画像加工のミスで日付が無くなってしまった。







冬は寒い。ゴミ袋でもいいから防御が必要なのだ。
後にゴールドクロスと呼ばれた。
ブロンズクロスとゴールドクロスの違いがあったと思ったが、無いが違うのかは覚えてない。







今も変わらない光景。企業・コスプレブースに行く列。







徹夜組の列。夏は腐臭が漂う。
覚悟を固めた者達と言うか、何かを捨ててきた者達。







どこを歩いているんだろう。







始発組み。写真右手は駐車場になっている。
今はがん研究病院になっている場所。


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