2 発端から廃止までの歴史 C71


【2006年(H18) 12月 C71】
これがコミケ作戦において四人体制で行動する、最後の作戦となっていた。
なお、記録には頼経を動員と書かれている事から、この頃は人数が必要という考えを
持っていたようだ。そして塩ラーメンが今作戦をもって引退する。彼はある一定の
年齢となったら卒業する旨を話していた。有言実行だ。


12月28日
いろいろと混乱があったようで計画がズタズタになっている。
記録も文章が分かりづらく、意味が理解できない部分もある。
とにかく大佐は仕事で東京に向かうらしく、現地合流となるのだが、それが分かっ
たのが28日で大急ぎで作戦が変更された。

予定では大佐との合流は30日であり、出発は鹿之介と頼経が二人でながらを使うも
のだった。また指定席券が無いので立ち乗りとなる予定。
29日に企業。30日に大佐と合流して京王閣競輪場。後に塩ラーメンと合流。
31日にはのんびりやる旨が書かれているのが予定。

実際には
大佐が28日中には東京に入るので大急ぎで作戦を変更。仕事が終わったら緊急で新
幹線を使って東京を目指す事にする。予算は7万円という低い数字。給料が遅れて
いたようだ。また準備が間に合わず、装備も無い状態で発進している。
鹿之介が実家に行き、頼経と合流。送迎を引き受けた佐藤超先生に頼経の住む方に
向かうよう伝え、承知させたが来ない。一時間待機した後に徒歩で発進。
佐藤超先生は鹿之介のアパートの駐車場で女にメールを送って遊んでいた。
鹿之介はこれにカンカンに怒ったが超依頼を引き受ける。


12月29日
非常に寒いうえに防寒装備が無いので鹿之介がゴールドクロス着用に踏み切る。
また、金が無いくせにフィーナ姫とエステルさんのzippoを買っている。
えらく強気だと思ったら、その日が給料日になっていたのでいけたようだ。
なお、佐藤超先生はzippoの裏の記号を見かたが分からなかったようで、鹿之介の
銀ちゃん(水銀橙)がGランクだとか言い出した事が書かれていた。


12月30日
「秋葉原より、直で輸送できる事を始めて知る。」
これは秋葉原にあるヤマトから送った事ではないか。
後にホテルから送るようになるが、この頃はまだまだ会場からが主体。
京王閣競輪場での競輪グランプリは強烈な記憶になって残った。
当時の文章が以下。
競輪のヤジの汚さ、競輪場の汚さ、面白さを大佐に分かって貰えればよしとしよ
うか。ヤキそばはクソ不味いうえにテーブルは散らかり放題で皿が山積みのうえに
コーラがこぼされたまま拭いても無い。全くの完全放置。食べる時に鹿之介が無理
やり隣の山にゴミを積み上げ、食い終わったら頼経がコーラのコップをわざわざ逆
さにして置く。ヤジに至っては選手紹介の時点で死ねと罵られるアホ選手。レース
を見る限り、確かに死ぬべきだ。しかし、初期予想だったらアレ、間違いなく取れ
ていたのが悔やまれる。次回は初期予想は流しで完全に抑えておこう。後、予想新
聞はいらん。俺達には不要だ。邪魔だ。三万近く敗北した俺に残されたものは小倉
竜二のグランプリTシャツだけとなる。
容赦なくタン、つばを吐いて回る光景が大佐にはカルチャーショックだった。
まあ、鹿之介や頼経もそうだったけど、つくづく酷い所だと思うわ。
この時に当時の語り草となったのが「コーラ三つ、コーラ!!」


12月31日
鹿之介が珍しく、壁サークルのロケット野郎に並ぶ。
これは覚えており、安房守の分も買ってきたのだがついに渡さずに処分となったの
では無かったかな。とりあえず即西をやったようだ。いつもながらご苦労さんだ。
秋葉原では解散するが紙風船でみんなと落ち合うなど、行く所は変わらなかったよ
うだ。


後日談では、鹿之介が気を利かせて、佐藤超先生が欲しがっていたサークルの本を
持っていくと「いらんなっ」と吐き捨てるように言われて機嫌を悪くしている事が
書かれていた。そんなこともあったなぁ。何度も言われたらしい。
あとシルフィ抱き枕を安房守が鹿之介に依頼通りに買ってきたが、金が無く厳しい
のでロケット野郎の本を渡すので値切ろうとしたが、大声を出されて進退窮まり、
生活費を削ったようだ。
安房守の依頼物の輸送飛鷹がこっち持ちなのに一円もまけてくれない。
コミケ作戦は不条理なのだ。
これが原因でロケット野郎の本は二冊、延々と置かれて最後はどうなったんだろう。
なお、そのシルフィが120cmのサイズと知って驚愕した事が書かれている。
等身大抱き枕(160cm×50cm)ってのはもう少し後になって主流となるのだ。



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